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NHKで放送されていたドラマ『Q.E.D.』が最終回を迎えました。

自分の好きなマンガがアニメ化されたりドラマ化されるとき、ファンの気持ちの中に期待と不安が同時に沸き起こります。時に感激し、時に悲しみに暮れる。「すべてが当たり」なんてことは「絵に描いた餅」、空想でしかありません。

今回の『Q.E.D.』。僕の中では当たりも当たり。大当たりでした。

TVドラマという様々な制約の中で、それを言い訳にするのではなく、逆に利用してやろうというしたたかさを感じました。

海外ロケがNGだったらしいのですが、そのおかげで学校の物語中心の編成になりました。燈馬と可奈(※)の高校生としての姿をストレートに表現することに成功していたと思います。高校生としての姿を描くことが、主人公・燈馬の成長物語につながり、ただの推理物語に収まらない深さにつながりました。

(※)燈馬のフルネームは燈馬想で、可奈のフルネームは水原可奈。苗字と下の名前を並列に書くのは本来おかしいのでしょうが、僕の中では「燈馬と可奈」なので、このままいきます。

MITに飛び級して入学し、そこから日本の高校に入学し直すという変わった経歴を持つ燈馬。栄光や地位などを捨ててでもアメリカを飛び出し、アメリカで得ることのできなかった「何か」を求めて日本へ。

最終回、その「何か」が「花見」に見立てられています。

燈馬のセリフにあったとおり、「花見」には姿・形の実体がありません。ということは、燈馬は姿・形のない「何か」を求めて日本にやってきたことになります。

理屈では片づけられない感情。感情に突き動かされる行動。
ケの日(日常)の温かさ。ハレの日(非日常)の熱さ。
自分の力だけではどうにもならないことを知ること。協力すれば大きな壁も乗り越えられること。
誰かに振り回されること。でも、時にそれが愉快であること。

人によっても違うでしょうが、「学生時代」に過ごす体験はこういうものだと思います。文集や卒業アルバムに残ることはないけれども、思い出に刻まれる「何か」。甘酸っぱい思い出であったり、思い出すのも恥ずかしい思い出であったり、人によって様々だけども姿・形のない「何か」。

2人の「花見」のシーンをみていてこんなことを漠然と思いました。

「桜」には姿・形はあるけれど、桜をみる行為「花見」には姿・形がない。かつての燈馬なら、姿・形のない「花見」には価値を見いださなかったことでしょう。最終回、「花見」の価値を見いだして、アメリカ行きを取りやめる燈馬。
僕はこれを燈馬の成長物語だと取りたいです。

可奈のお父さんの娘に対する「立証責任」のシーン。あのシーンにもしびれました。身震いみたいなものを感じました。こんな父娘の関係、素敵ですね。ドラマの中だとはいえ、うらやましさを感じました。


それにしてもこのドラマ『Q.E.D.』の良かった点は、安易に「恋愛物」に収束させなかったところでしょう。それを予感させる描写はたびたびありましたが、あくまで「推理劇」、そして「成長物語」を描いていたからこそ、(少なくとも僕の中では)共感が得られたのでしょう。

原作のマンガを1巻から通しで読みたくなってきました。そう思わせてくれたことがこのドラマの質の高さを表しています。ドラマのスタッフに感謝!


○ドラマ『Q.E.D.証明終了』公式サイト
 http://www.nhk.or.jp/drama8/qed/

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