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 先週の金曜日である9月4日、毎年恒例の高校生クイズが放映されました。番組はそれなりに楽しめたのですが、同時に不安のようなものが湧き上がってきました。オーバーに書くなら、その不安とは、今のクイズの環境はしだいに失われていくという予感めいたものです。

 高校生クイズを知らない人のために、番組の内容をかいつまんで紹介します。高校生クイズとは、高校生が3人1組で互いに協力しながら次々出題されるクイズを攻略し、全国の頂点を決める番組です。毎年8月末~9月頭になると日本テレビ系列で放送される「夏の風物詩」となっています。「クイズ甲子園」という形容がふさわしいかもしれません。「高校生版ウルトラクイズ」と書くと、イメージしやすい方もいるかもしれません。
 そんな高校生クイズも今年で29回目。この金曜日の放送は、各地方の予選を突破した52の高校が集い、ただ1つの優勝校を決める戦いを描いたものでした。

 僕も高校生クイズの出場経験があります。3回出場してすべて予選敗退。けれども、それはいい思い出として胸に刻まれています。高校を卒業してからも、毎年ではありませんが、都合があれば番組を見ています。
 一昨年は見ていません。昨年・今年は見ることができました。そんな昨年・今年と、出題されるクイズに難化傾向が伺えます。今放送されているクイズ番組の中で最高難易度。むしろ、頭3つくらい突き抜けている感じです。それでも勝負になるのだから、出場した高校生たちには舌を巻くしかありません。

 そんな今年の高校生クイズを見て、不安を抱いたのです。

 高校生クイズには果たすべき役割のようなものがあると僕は考えています。親子であーだこーだ言いながら楽しんで、子どもが「いつか高校生クイズに出るんだ!」と憧れを抱き、高校生になってその夢を果たしていく。こんな高校生クイズ像が僕の中に存在します。クイズファンにとっての「1年に1回の祭典」という要素はあるにせよ、「次の世代に憧れを抱かせる」という要素は外せないと思うのです。
 高校生クイズはその名のごとく、高校生にしか出場資格がありません。出場チャンスは生涯を通して3回のみ。これは、高校生以下の世代に常に喚起し続けないと、その規模は縮小していくことを意味します。
 去年今年の番組を見て、何人の子どもたちが憧れを抱いたのでしょう。逆に若年の視聴者は引いたのではと不安になるのです。狡猾に計算高くなってほしいとは思いませんが、今さえよければいいという自己満足的な番組姿勢には決して「良し」とは思えません。

 今、ゲームセンターに行くと『アンサー×アンサー』や『クイズマジックアカデミー』といったゲームが稼働しています。その気になればいつでもクイズを楽しめる環境があります。実にすばらしいことです。
 環境が整っているのはなぜか。当然、需要があり、かつ、需要に応える供給があるからです。需要も供給も、かつての「高校生クイズ」や「ウルトラクイズ」で、憧れを抱き、その憧れを失わずにいる、もしくは憧れを思い出した人たちが支えているのだと思うのです(僕もそんな1人です)。確たる証拠はありませんが、きっとそうに違いないのです。

 高校生クイズが変質していくと、この需要の部分に陰りが生まれてしまいます。せっかくの環境が脅かされる危険性をはらんでいるのです。需要がなくなれば、供給がストップします。経済活動の仕組みからいけば、当然のことです。
 せっかくの環境を失いたくはありません。

 今の高校生クイズのスタッフからは「思想」が感じられなせん。「工夫」がありません。ただただ、マニアのためのマニアによるマニアなクイズ番組に変質しています。クイズマニアが、かつて果たせなかった己の満足を果たすのに利用しているようにしか映りません。高校生クイズはマニアが自己満足を実現する道具ではありません。そんなマニア向けのコンテンツは別に用意すればいいです。
 編集にも疑問符が浮かびました。出題される問題と問題、逐一、間が多くとられていました。クイズ好きにとっては、このテンポにいらいらします。マニア向けの体をとりながら、編集はそうなっていない。統一感がありません。間を空けるなら、解説を挟み込めばいいのにと思います。難易度の高さを鑑みれば、この程度の視聴者への配慮があってしかるべきです。
(準決勝で出題されたMENSAの暗号。これにも「シーザー暗号」という名前が付いています。あの出題はパズルなんかではなく、知識を問う立派なクイズです。編集で解説を入れれば、視聴者にもその意味が伝わるのに! ちょっとの手間を惜しんでどうする!)
 司会・進行役も不必要に存在していたのも疑問です。司会者が出題しなくなったのって、今年からでしょうか? ここには書けない、いらぬ疑念・疑惑が浮かんでしまいます。かつては、プライドを持って司会者が問題文を読み上げていたはず。もはや司会者にプライドは不必要?

 何を見せるのか(What)、どう見せるのか(How)。そのどちらの視点も欠けていました。あたかも「資金不足」を免罪符にして、安易なところに逃げているかのようでした。
 高校生クイズを支えるスタッフには、クイズの世界を背負っている自覚を持っていただきたい。未来につなげる番組を創ってほしい。このように願うのです。

 思想も工夫も感じられない番組でしたが、出場した高校生は見事でした。期待通り、いや、期待以上のパフォーマンスでした。
 早押しクイズの的確な押しは超一級のものです。「見せ物」としてお金が取れそうです。スポーツ選手のファインプレーを見てうっとりするようなものです。その背景には、的確な押しを誘導する問題文の存在があります。(出題難易度のレベルの観点ではなく)練りに練られた先読みを誘導する問題文の質の高さには感心しました。この点においては、出題スタッフの苦労が伺えます。日向の当たらないところで縁の下の力持ちの役割を果たしています。
(それにしても、浦和高校の早押しは素晴らしかった! 惚れ惚れします。あれはまだまだ見ていたかった! 勝ち進もうとも負けてしまおうとも、あの後、早押しクイズはなかったのですが。)

 そういえば、あの芸能人たちは必要だったのでしょうか。資金が潤沢とはいえないのだからもっと適材適所に有効活用すべきなのでは? こんなところに「オトナの事情」が見え隠れします。

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 番組名で検索されてここにたどり着かれてもお互い嫌な気持ちになるので、具体的に名前を挙げることはしません。政治的にひどく偏向したあるラジオ番組があります。民主党よりの報道なのです。普段は聞いていません。聞いていて気分が悪くなるからです。けれども、昨日は興味があり聞くことにしました。昨日の夕方、民主党の小沢代表の辞意表明があったからです。やはりというか、案の定というか、アンチ自民、民主プッシュの偏向報道でした。中立とは決していえない内容です。

 この番組を聴いていると、いろいろと考えることがあります。

 政治的にひどく偏った内容を公共の電波に乗せていいのか、という第1の疑問です。
 もちろん何らかの発言をする以上、必ずどちらかに針は振れます。そこから逃れることはできません。真に針を真ん中にするには沈黙しかありえません。
 それを前提にしても、片側に振れっぱなしというのには疑問が残ります。交互に等しく針が振れていれば、「おおよそ中立」と言って構わないでしょう。それこそが報道としてふさわしい姿なのではと、頭によぎります。

 その一方、パーソナリティの個性が出るからこそラジオとしての魅力が高まる、という気もするのです。この番組には、そのタイトルに個人の名前を冠しています。個性を番組に乗せるのは当然です。
 「ラジオを聴く」という行為を僕らがするとき、主にそのパーソナリティの個性に惚れ込むのが動機になります。もちろん仕事しながら惰性で聞くこともあります。それでもパーソナリティに合わせてチューニングを変えるという権利がリスナーには存在します。リスナーは自分の嗜好に合わせて番組を変えてしまえばいいのです。

 イヤならば聴かなければいい。はい、やっぱりこれからも聴くのは致しません。これで結論になってしまいます。
 けれども、あえて結論としたら思考停止。ここは踏ん張って、考えを続けます。

 偏った報道であろうと、自分の考えとそぐわない点があろうと、語っている内容に納得さえできれば聴きたくもなります。けれども、この番組を聞こうという気にまったくなれません。「偏っている」だけでは解決できない理由があるからでしょう。

 ラジオを聴くという行為がパーソナリティの個性に依然しているのであれば、僕が番組を聞きたくない理由はパーソナリティを探ることで得られるはずです。
 番組のパーソナリティのコメントを聞いていて納得できない点が多々あります。なぜ納得できないのかと考えてみたとき、なぜパーソナリティがそう考えるのかという一番大事な点が欠けているのだと思い至りました。うなずくか否定してみせるだけ。「これはいかん」「うーん」「なるほど」しか言わない、言えない。単語レベルのコメント。だから、そう考えるに至ったのか伝わりません。
 計算してのことなのか、素なのかはわかりません。これも個性だと言われると身も蓋もありません。けれども「政治」という題材を扱い「偏った報道」をしているのにも関わらず、伝わらない意見が個性。ラジオパーソナリティとしてこんな個性、番組の存続を揺るがす致命傷だと思ってしまうのです。

 それにしても、昨日の辞任報道に関して、都合のいいリスナーの意見しか読み上げないのにはさすが辟易します。しかもこれが国民の意見の中心であるかのように操作されると、さすがに「ヒドい!」と言わざるをえません。パーソナリティの意見が偏るのは自由ですが、リスナーの意見を操作するのは自由ではないはず。反対意見も読み上げてほしいものです。「印象操作」と言われても仕方がないでしょう。
 作曲家である三木たかしさんの訃報に関しても、もう少し気の利いたことを言えないのでしょうか。今まで詳しくなかったのでしょう。当たり障りのない「定型表現」だけ。そんなことはラジオの役割ではありません。詳しくなかったのならば、放送前に勉強すればいいだけのこと。

 新聞については何度か書いていますが、ラジオについても期待を寄せています。それだけにこういう番組を聴くと不安になります。「インターネットさえあれば他のメディアは不要だ」なんて主張する人たちの材料になりかねません。この番組の人気って、どうなのでしょう? 他の人がどう考えているのか知りたいです。

 よけいなお節介なのを承知で、少し憂いのあることを書いてみました。
 ここで書いているだけでは何も改善しないんですよね。匿名で送ってしまおうか、ちょっと迷っています。番組で読まれることは絶対ないでしょうが、パーソナリティ・番組スタッフに一石投じられるのであれば、その価値があるかもしれません。
 さあ、どうしましょう……。

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 1つ前の投稿と連動しています。ぜひ前の投稿を先にご覧ください。

○「体重変化と死亡率の関係調査」を読んで
 http://tblb.blog.shinobi.jp/Entry/52/


 前の投稿では厚生労働省研究班のレポートに突っ込みを入れるように、好き勝手書きました。このレポートを元に新聞社が記事を書いています。下に各新聞社の記事のリンクを貼りました。

○読売新聞「やせると肥満より危険、5キロ以上減死亡率1.4倍…厚労省調査」
 http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20090423-OYT8T00613.htm

○毎日新聞『体重:要注意!5キロ以上減 増加より高死亡率--9万人調査』
 http://mainichi.jp/life/health/news/20090423dde001040026000c.html

○産経新聞『成人後、体重減ったら気をつけて 「増加」より死亡率高く』
 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/246146/

○時事通信「若いころからの体重減、要注意=がんなど死亡リスク増-厚労省研究班」
 http://www.jiji.com/jc/zc?key=%b8%fc%c0%b8%cf%ab%c6%af%be%ca%b8%a6%b5%e6%c8%c9&k=200904/2009042300288


 まずは読売新聞の記事から俎上に載せます。

成人後に5キロ・グラム以上体重が減った中高年は男女とも、死亡する危険が1・3~1・4倍高いことが、厚生労働省研究班(主任研究者=津金昌一郎・国立がんセンター予防研究部長)の大規模調査でわかった。

 どうでもいいツッコミからいきましょう。
 「キロ」と「グラム」の間の中黒(・)。なぜここに中黒? 2単語からなる言葉なら間に中黒を打つのでしょうけど、英語でキログラムはkilogramで1単語。この観点からは中黒の必要性はありません。そもキログラムで中黒を入れるなら、「センチ・メートル」「ミリ・アンペア」「ヘクト・パスカル」「メガ・バイト」ってなるのでしょうか?

 次は大事なツッコミ。
 引用した文中に「1・3~1・4倍」とありますが、「何」の1.3~1.4倍なのかが書かれていません! この記事を書いた記者もチェックするデスクも気づかなかったのでしょうか。気づかないのにも恐ろしいけど、この重要性を知らないのだとしたらもっとゾッとします。
 このときに書きましたが、新聞というメディアには大きな期待を寄せているのです。それだけにこういう記事を読むと残念な気分になります。文法に誤りがある、漢字に誤りがあるなどとは違います。比較対象のない「○倍」をそのままにしておける感覚が怖いです。「がんばれ! でないと本当にインターネットに食われるぞ!」そうエールを送りたいです。

 そうは言っても、次の引用文のような独自の考察を入れる姿勢には感心します。

やせると死亡率が上がる原因は今回の調査からはわからなかったが、体重低下で免疫力が落ち、感染症などにかかりやすくなることが考えられる。

 きちんと「独自の考察」だと文体から判断できるようにしています。ごまかすことなく堂々と書いています。立派なことです。


 読売新聞に続いて毎日新聞。

その結果、男性は、体重減少群の死亡率が変化の少ない群の1・44倍、女性は1・33倍と高かった。一方、男性の体重増加群の死亡率は、変化の少ない群の0・89倍、女性は0・98倍と逆に低かった。

 毎日新聞では体重増加による死亡リスク減について触れています。厚生労働省研究班のレポートに掲載された表にははっきりと書かれています。けれども、後半では「男女とも体重が増加することの死亡リスクの増加は、ほとんど認めませんでした」と書いている。矛盾はしていないのですが、どこかすっきりしない。研究班としては「リスク減」とは書けないのでしょうか。「メタボ検診」などの政策と逆行するから? 研究班の意図と、毎日新聞がこれをどう捉えたのかを聞き出したいです。

 うわさに聞いていましたが、毎日新聞は署名記事が増えているとか。この記事も署名記事になっています。永山悦子さんが書いています。だからなのでしょうか、スキが少ない。「日本人の体重変化と死亡率の関係が明らかになったのは初めて。」「ダイエットによる影響は調べなかった。」なんかは短いながらもポイントを抑えていて好感をもてます。こういう記事を読むとうれしくなります。


 続きまして産経新聞。

 一番奇妙なのが、記事文章の途中で他の記事へと誘導するリンクが挿入されていること。意図がまったくわかりません。読んでもらうのを拒否している?

成人後に体重が増えた人よりも、減った人の方が死亡率が高いとの研究結果を、厚生労働省研究班(主任研究者・津金昌一郎国立がんセンター予防研究部長)が23日、発表した。

 引用した文は記事の冒頭です。新聞記事は頭括式になることが多いので、いわば要旨になります。
 気になったのは、「成人後に体重が増えた人よりも、減った人の方が死亡率が高い」というところ。体重増加組と体重減少組を比べるのが主旨なのでしょうか。下手すると「ダイエットするくらいなら太った方がいいよ」という意味に取りかねません。危険な表現です。その上、「……との研究結果を、厚生労働省研究班(……)が……発表した」とあり、こうが発表はしていません。記者の勝手な(はオーバーですが)解釈なわけで、それをこの記事の主旨であるように書くのはいかがなものでしょう。

 そうはいっても、段落ごとに最重要→重要→まあ重要→やや重要、ときれいに重要度が高い順に並んでいる構成は見事です。それだけに冒頭の1文が残念です。


 最後に時事通信です。

 第2段落冒頭の次の1文にキラリと光るものを感じます。

生活習慣病対策の特定健診は、体重の増加のみをリスク要因としている。

 生活習慣病対策に関する事実を述べているだけなのですが、言外に「これでいいのか!」という主張を感じます。記者のメッセージが込められています。
 研究班の調査内容を伝えるだけなら不要な文です。けれども、この記事の記者はこの文を第2段落に持ってくることで体重減への危険性をアピールすることに成功しています。数字を並べるよりも心をつかみます。
 テクニックでは評価できないこういう文章が書ける文章能力、あこがれます。


 すべての記事に共通して研究班の一員で愛媛大大学院准教授の斉藤功さんがコメントしています。内容は似ているのに、表現が少しずつ違います。新聞社ごとにコメントを変えている面倒なことはしていないでしょうから、各新聞社がアレンジを加えているのでしょうか。不思議です。

読売新聞
「成人後に5~10キロ・グラム程度太るのは自然な現象。肥満の危険性が強調されることが多いが、体重減少も重視しないといけない」

毎日新聞
「死亡率を上げている原因は不明だが、成人以降の自然な体重減少は、健康障害が起きているシグナルの可能性がある」

産経新聞
「成人後には体重が増えるのが一般的なので、体重が減った人は、何らかの健康障害が背景に隠れていると考えられる。体重が減っている人は自分の健康管理に注意が必要だ」

時事通信
「若いころより体重が増えるのは一般的。死亡に関しては、体重が落ちる人の方を注意して見た方がいい」

 どれがオリジナルの発言に近いのかは不明です。こうなると何を信じていいのかわからなくなります。
 ツッコミを入れるのであれば、体重が増えるのはそんなに一般的なのでしょうか。統計データがあるならば見てみたいものです。


 朝日新聞はまだ記事にしていないようですね。記事にするつもりがないのでしょうか。それとも、後出しジャンケンのようにユニークな切り口で書いてくるのでしょうか。

 この報道がなされた4月23日、ラジオでもこの記事が報道されていました。どの番組なのは明らかにしませんが、メインパーソナリティの方が「ダイエットと死亡リスク」の話をしてしまいました。研究班はダイエットとの関連は述べていません。ろくに記事を読んでいないのが露呈してしまいました。そうでなくてもこのパーソナリティ、権力を否定してみせる発言ばかりしていて、オリジナルの意見を聞きません。「お願いだから正確に伝えて! 勉強して! 言葉を垂れ流しにしないで!」と強く願います。ラジオの価値を貶めないでほしいものです。


 それにしてもたっぷりと書きました。この記事についてはお腹いっぱいです。
 「暑苦しく語りたい!」というカテゴリーを作りました。時々沸き起こるこういう文章をこれからも書き散らしていこうと思います。

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今週3月17日(火)発売の『週刊アスキー』2009年3/31号で見つけた話。『世論調査.net』で「マスコミを支持しますか?」というアンケートを実施して、「マスコミ不支持」が相当数に上っていたとのこと。
気になってアクセスしました。僕が見たときには、回答総数9331。このうち支持が1.99%にあたる188票、不支持が94.45%にあたる8932票集まっていました。

インターネットによる調査だからその時点で公平ではありません。一種のフィルターがかかっていて「国民の総意」では絶対にありえません、誰が何と言おうと。
それでも「不支持」が多いだろうとは思うし、支持か不支持かと問われれば僕も「不支持」を推します。

投稿されたコメントを見ることができるので上から眺めていました。正直あまりにも量が多いのと、同じような声が多く飽きてしまったので、途中で読むのをやめてしまいました。
その投稿の中で多数を占める意見が「マスコミは公平ではない」「マスコミは偏重している」というもの。きっと多くの人が「そうだろうなあ」と思うのでしょうね。

でも、まず一歩立ち止まりたい僕はひねくれたことを考えるのです。「公平」ってなんだ?と。

スポーツやゲームなどのルールのある世界で「公平」かどうかを裁くのは簡単です。ルールに則って判断がなされれば「公平」です。つまり、誰が判断してもルールに従えば同じ結果になることが保障されています。
この観点でいえば、数学の世界も「公平」です。数学の中の体系にしたがって正しい計算や操作をすれば、性別や宗教や貧富や門地などに関係なく同じ答が得られます。

マスコミ。人によって定義が違うのでしょうが、ここでは不特定多数である一般民衆に情報を伝える手段、および媒体としておきましょう。「マスコミを支持しますか?」という問いの背景にあるのは、テレビ・ラジオ・新聞でしょうか。本来はここにインターネットも入れるべきでしょうが、とりあえず別に分けて考えます。

それで「マスコミは公平ではない」のか。言い換えれば「テレビ・ラジオ・新聞は公平ではない」のか。
テレビ・ラジオ・新聞にはルールがあるのか。少なくともスポーツやゲームのような明確なルールはありません。つまり、勝ち負けの基準があるとか、こうしたら反則になるとかのルールは存在しません。
あるとすれば各マスコミに存在するであろう「理念」と「求められる役割」でしょうか。「理念」「役割」が正しいものであるか、看板だけになってしまっているのか、しっかりしたがっているのか。ここを考えたら1つ1つのケースをつぶさに検証する以外にありません。
けれども間違いなくいえるのは、(それが多くの人に良い・悪いの結果はともかくとして)「想い」があって、それにしたがって報道されている事実です。例えば、事実を伝える、情報を流すという使命を帯びている以上、取捨選択は必ず存在し、結果的に「想い」を乗せざるをえないはずです。

したがって、「マスコミは公平ではない」と言われると当然じゃないかと思うのです。公平なマスコミなんて存在不可能だと思うのです。マスコミは公平ではないし、中立なんて無理だし、偏重(度合いはともかく)しています。今、主語が「マスコミ」でしたが、個人だって絶対に公平ではないし、中立になんか立てないし、偏重するのです。公平で、中立で、偏重しないには「沈黙」するしかありません。いや、「沈黙」すらも時にメッセージを持ちますから、やはり公平で中立で偏重しない立場なんか夢物語です。

以前このブログで「否定とともに解決策を」というタイトルで文章を書きました。否定の立場は絶対的勝者になることができて、心地よくなれる。「安全地帯」が保障される。こんなことを書きました。
9000近い不支持の票と多数の否定的意見。これを読んでいると「安全地帯」からの遠吠えに聞こえるのです。

僕はテレビ・ラジオ・新聞が絶対的に悪いとは思っていません。テレビ・ラジオ・新聞が悪いとすれば、インターネットも同じくらい、いやそれ以上に問題を抱えていると想います。先の『世論調査.net』で「インターネットさえ存在すればいい」なんて声があり、こんな声を聞くと「とんでもない」と思うのです。
情報を集めるにはインターネットは便利です。幅広い情報から必要な情報を検索する。テレビ・ラジオ・新聞には絶対できない芸当です。書籍でも無理です。この便利さを一度知ってしまうと、インターネットがなかった頃にはもう戻れません。けれども、「インターネットさえ存在すればいい」なんて絶対に思えません。
「インターネットさえ存在すればいい」と唱える人は言います。ニュースはテレビ・ラジオ・新聞に頼らなくてもインターネットで見ればいい、と。 僕にはこの感覚がどうしても理解できそうにもありません。この人はニュースを見たり聞いたりして事実を知れればばいいのでしょうか。事実を知ることは雑学やトリビア・薀蓄と同列だと思うのです。「へ~」とは思うけど、発展性を感じません。
ニュースをはじめとした事実に求められるのは、そこからどう考えるか、またはこれからどう行動するべきかという指針のタネであるべきでしょう。インターネットの100~200文字程度のニュース報道、下手したらヘッドラインだけの1行ニュース、これらにそのような発展性は望めません。
世の中のことから新しいアイデアを思いついたり、これから起きそうな出来事を予期してあらかじめ予防策を貼ったり、物事をいろいろな方向からとらえ直したりする。これらをするには、テレビ・ラジオ・新聞はやはり便利です。インターネットではまだまだ力不足です。

インターネットがなぜこのような発展性に至らないのか。僕が考える理由は、インターネットが余りにも事実を小口に切り分けているからです。想いを乗せるにはあまりにも短すぎるのです。想いが乗らなければ発展させられません。
インターネットの登場と共に距離と時間の感覚が速まっています。もっと遠くまでもっと速く伝えることに大きな価値となり、それがあたりまえになってしまいました。その中でどんどん「情報の小口化」が進んでいる気がしてなりません。文章は短くスピーディに、これが最上の価値となっている気がしていい気分がしません。メールで送られるニュースメールしかり、コントの短時間化しかり、「○○分で○○がわかる!」なんてタイトルの書籍しかり。
「情報が小口化」されると共に、「思考の小口化」も同時に感じてしまうのです。ちっぽけな思考で思考が単線化・単純化していると思うのです。
「あの政治家は○○だからけしからん!」
  ……立派な仕事もしているんじゃないの?
「今度の犯罪は14歳が犯した。子どもって怖いね。」
  ……一部を全体化してしまうその発送こそ怖いのでは?
「あの犯人は○○に影響されたんだって。○○を禁止しよう!」
  ……○○を持っていたら全員犯罪者?

否定的なものを見つけて、それと逆のことを発言する。パッと見はまともなようですが、やはり「安全地帯」からの遠吠え。こういう思考は今の現象をとらえてひっくり返すだけ。「第3の道」を探すこともせず無難な道で満足してしまう。こういう考えは短絡的で、むしろ危険な気がするのです。
よく大人が子どもに対して否定する「○○がイヤだから××したくない」「○○はつらいからしたくない」「楽しいことさえやっていればいいじゃん」と本質的に差がないと思うのです。

再び『世論調査.net』の話です。「マスコミは支持できるのか?」の問いに対し、「No!」とつきつけマスコミ批判をしてみせる。パッと見はまともなようですが、否定している人たちも「思考の小口化」しているだけで、「安全地帯」に逃げ込んでいるだけに聞こえるのです。この「安全地帯」からの声を聞いていると、例えば政治家批判をしているテレビとなんら変わらないと思うのです。
「安全地帯」は居心地がいいものです。僕も強く思います。けれども、「安全地帯」を抜け出さなければ発展性はありません。「思考は小口化」します。これを避けるには「第3の道」を見つける努力をするしかありません。

「知る」きっかけはインターネットでも充分です。でも、知るだけでは「安全地帯」から抜け出すすべはありません。「第3の道」を見つけるためにもテレビ・ラジオ・新聞はまだまだその役割は終わっていません。
小口化された情報には気をつけなければいけないし、それ以上に小口化された思考には気をつけなければなりません。発信されるものにも気をつけなければなりませんが、自分がその発信者にならないこともそれ以上に大事です。

「マスコミを支持しますか?」、この問いから今回感じた僕の決意です。


○『世論調査.net』内「マスコミを支持しますか?」の結果
 他にも数々のアンケートをアンケートを実施しているようで、自分でアンケートを設置することも可能なようです。
 http://www.yoronchousa.net/7031.htm

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NHKで放送されていたドラマ『Q.E.D.』が最終回を迎えました。

自分の好きなマンガがアニメ化されたりドラマ化されるとき、ファンの気持ちの中に期待と不安が同時に沸き起こります。時に感激し、時に悲しみに暮れる。「すべてが当たり」なんてことは「絵に描いた餅」、空想でしかありません。

今回の『Q.E.D.』。僕の中では当たりも当たり。大当たりでした。

TVドラマという様々な制約の中で、それを言い訳にするのではなく、逆に利用してやろうというしたたかさを感じました。

海外ロケがNGだったらしいのですが、そのおかげで学校の物語中心の編成になりました。燈馬と可奈(※)の高校生としての姿をストレートに表現することに成功していたと思います。高校生としての姿を描くことが、主人公・燈馬の成長物語につながり、ただの推理物語に収まらない深さにつながりました。

(※)燈馬のフルネームは燈馬想で、可奈のフルネームは水原可奈。苗字と下の名前を並列に書くのは本来おかしいのでしょうが、僕の中では「燈馬と可奈」なので、このままいきます。

MITに飛び級して入学し、そこから日本の高校に入学し直すという変わった経歴を持つ燈馬。栄光や地位などを捨ててでもアメリカを飛び出し、アメリカで得ることのできなかった「何か」を求めて日本へ。

最終回、その「何か」が「花見」に見立てられています。

燈馬のセリフにあったとおり、「花見」には姿・形の実体がありません。ということは、燈馬は姿・形のない「何か」を求めて日本にやってきたことになります。

理屈では片づけられない感情。感情に突き動かされる行動。
ケの日(日常)の温かさ。ハレの日(非日常)の熱さ。
自分の力だけではどうにもならないことを知ること。協力すれば大きな壁も乗り越えられること。
誰かに振り回されること。でも、時にそれが愉快であること。

人によっても違うでしょうが、「学生時代」に過ごす体験はこういうものだと思います。文集や卒業アルバムに残ることはないけれども、思い出に刻まれる「何か」。甘酸っぱい思い出であったり、思い出すのも恥ずかしい思い出であったり、人によって様々だけども姿・形のない「何か」。

2人の「花見」のシーンをみていてこんなことを漠然と思いました。

「桜」には姿・形はあるけれど、桜をみる行為「花見」には姿・形がない。かつての燈馬なら、姿・形のない「花見」には価値を見いださなかったことでしょう。最終回、「花見」の価値を見いだして、アメリカ行きを取りやめる燈馬。
僕はこれを燈馬の成長物語だと取りたいです。

可奈のお父さんの娘に対する「立証責任」のシーン。あのシーンにもしびれました。身震いみたいなものを感じました。こんな父娘の関係、素敵ですね。ドラマの中だとはいえ、うらやましさを感じました。


それにしてもこのドラマ『Q.E.D.』の良かった点は、安易に「恋愛物」に収束させなかったところでしょう。それを予感させる描写はたびたびありましたが、あくまで「推理劇」、そして「成長物語」を描いていたからこそ、(少なくとも僕の中では)共感が得られたのでしょう。

原作のマンガを1巻から通しで読みたくなってきました。そう思わせてくれたことがこのドラマの質の高さを表しています。ドラマのスタッフに感謝!


○ドラマ『Q.E.D.証明終了』公式サイト
 http://www.nhk.or.jp/drama8/qed/

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 思っていること、考えていることを誰に頼まれることもなく綴っています。自分の思考の整理として書いているので、日記ではありません。
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 なお、別サイトで読書記録をつけています。こちらにもお立ち寄りいただければ幸いです。
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